昭和49年02月06日 朝の御理解



 御理解 第25節
 「信心は大きな信心がよい。迷い信心ではいかぬ。一心と定めい。」

 一心の定めどころと申しますか一心に定める。何処をどう一心に定めるかと。愈々大きな信心に一心を定める。迷い信心に一心を定めたのではいけません。所謂大きな信心。大きな信心というのは大きな事ばかりを、お願をするという意味ではない。それは願わなければおられない事は、やはり大きいがいいですね。天下国家の事でも本当にそれが、願わなければおられないものであるとするなら、やはりそれを願われると言う事は、大きな信心だと思います。
 ですから大きな信心には、第一迷いが起こらない。ちょっとした事で迷うたり崩れたり。いわゆる挫折するような事はない。矢張り大きな願いを持った信心には、例えばシナに「韓信」とい人があったですね。それこそ末は世を取るというほどしの大きな願いをもっておりますから、韓信の股くぐりですよね。有名な話がありますように、大きな希望、大きな願いを持っておるから、小さい事で腹を立てたり、それで自分が傷付いたりするようなことはないというわけです。それは大きな願いを持っておるからです。
 私は今日御神前で頂いた、稀という字ですね。あの禾偏に希望の希が書いてある。稀と読むでしょう。所謂稀代の悪党等と言う、稀に見るという時に使う稀、禾偏に希望の希です。私は思うのに金光様の御信心を頂いておる者が、いうならば一村に何人おるだろうかと。久留米なら久留米という、久留米市内に何人おるだろうか。それこそ稀です。私は信心によって愈々自分が助かって行く。自分の助かりを思えば思うほど、こういう素晴らしい助かりの道があるのに、世の中で難儀な人達がうようよしておる。この人達が本当に金光様の御信心を頂いたら、助かるのになぁとこりゃ本当に思うです。
 けれども中々、そういう信心になろうともしないし、又知ろうともしない。そういう本当の助かりの道があると言う事を知らない。それを知っておる者が稀である。その稀である所の金光様のご信者。いうなら合楽というても良い合楽のご信者。この様な有り難いおかげの受けられる。この様に有り難い自分の心が助かっていけば行く程、こういう有り難い道があるのにとこう思う。その合楽の信奉者の中でもです。本当に自分自身が助かっておる。自分が助かると言う事は、必ず愛の心というものは大きくなるです。
 自分が本当に助かれば助かる程、愛の心は大きくなるです。そこに難儀な人を見る時難儀な事に直面して、難儀をしておる人達を見ると自分が助かっておるのですから、そういう助かりの道があるのに、この人達がそういう道に入られたら、助かられるのにと思うからそれが愛の心となってお導きというか、話してあげるとかと言う様な事になってくる。何かそれに対する所の運動でも、起こしたい様な心が起きて来る是が愛の心。
 自分が助かっておらずして、愛の心というものは生まれてこないと思うのです。自分が本当に合楽の信心によって助かる。助かっておる所が合楽の信心を頂いておるという、金光様のご信心を頂いておると言う事もです。もうそれこそ稀な事です。久留米市内に何人金光様のご信者がおるかと。合楽も含めてですよまだここは久留米市内ですから。久留米市内にどれだけの信者がおるか。それこそぽつんぽつんと稀なものである。
 二十数年前これは神様からお知らせを頂いておった時分に、電車の中から麦畑に今はどうか知りません。昔はよう黒ん坊が出来ましたね随分。ぽつんぽつんと黒ん坊がある。本当に信心を頂いて助かるとというのは、丁度あの広い麦畑の中にぽつんぽつんと黒ん坊があるくらいなもんだと。黒ん坊と言う事は、私はやはり修行人と言う事だと思うです。信心によって信心の苦労をしておる人達という。
 本当にそれこそ広い畑に、ぽつんぽつんと黒ん坊があるくらいな事です、信心を頂いておるという。その信心を頂いておる、合楽に御縁を頂いておるというたらです。自分が本当に助かる。信心によって助かってこの助かりを人にも伝えなければおれないと言う程しの人は、又稀なんです。人にだんじゃなかこっちが、ぎゅうぎゅう言いよる所えと言うぐらいな信者。けれども私は今日、稀という字を頂いてです。
 そして今日の大きな信心がよいと仰るのはです。本当に稀にしかない金光様のご信心を頂き合わせたのですから、そういう御縁を受けたのですから。本当に大きな信心を頂かなければ、金光様の御神縁を頂いて、五年でも十年でも信心が続いておるとするなら、もうそりゃ稀な事です。だから稀と言われるほどしの、希少価値というか値打のある信心を頂いておるのですから、値打のあるものにしなければ相済まんのである。
 又馬鹿らしいのである。所がそれほどしのぽつんぽつんとした信者の中に、お互い選ばれておりながら、自分が本当に助かる事の為に、精進しておる人が又何人あるだろうかと思うです。私は合楽に御神縁を頂いて、本当に三年五年と信心が続いておかげを頂いておるほどしの人ならばです。愈々信者の中の信者とでも申しましょうか。信者ですらも稀である。その中のまた信者の中の信者と、自分でも言えたり思えたりする位な信者に、お取り立てを頂きたい。
 それに私は迷い信心ではつまらんと言う事。迷い信心では例えば千万おった所で、それは大した事はないと言う事。金光様の御神縁を頂いたというだけでも稀なのですから。その稀な信者の中の信者に、お取立てを頂かなければ相済まん。稀という字を禾偏に希望の希という字を書いて、稀と読む。そんならその禾偏を木偏にするとしましょうか。それでは稀代の希にはなりませんはね、希望の希にはなりません。
 木偏に木にちょっと上に、こう点を付けるだけで、禾偏になるでしょう。自分の心に木は心というから、自分の心にはぁほんに折角信心させて貰うなら、今日ここで頂くような大きな信心にならにゃなぁと思うだけの事なんです。所が自分の信心はどう言う事かと言うと、只おかげを願っておるだけの信心です。只自分の苦しみから神頼み的な信心。そのためには修行もしておるけれども、そういうおかげの頂けれるための修行や、値打の無い修行。折角これ程しの修行。
 折角これ程朝眠い思いをして、朝早うからお参りをして相当の金額をお供えをして、お参りをして来ておるのですから。そのお参りの焦点というのが本当のおかげというか迷い信心ではない、大きな信心を目指しての是が修行である時にその修行が生きるのです。いうなら迷い信心で、私は今日ここでおかげを頂くという意味、おかげ信心と言う事を、今日は迷い信心と言う風に聞いて頂きたいと思う。だからおかげば頂かんなんからこうやって毎日毎日、繁々とお参りをしておるのであったらそりゃ迷い信心です。
 本当に金光様のご信者というがです。それこそ麦畑の中の黒ん坊の程度にしかない、その黒ん坊その苦労をしておる、そういう修行をしておるけれども、それが小さい願いのため。ただ頭が痛うございますけんお願します。少し金が足りませんからよろしくお願します。今日もどうぞ商売が繁盛致しますようにという事だけの前に、是が毎日お参りをしておるとするならです。折角の苦労がです折角の黒ん坊が、黒ん坊にならないじゃないか。苦労をしておるけれども。
 修行はしておるけれども、迷い信心に打ち込んでおるだけです。例えば成程痛い痒いもあります。様々に商売でも折角なら繁盛しとる、おかげが有り難いです。けどもそういう願いというものは、大きな信心を頂かせていただく為の過程である。ための修行であると言う様に頂きますと、その難儀は難儀と感じなくなる。人間関係で例えば苦労をしておる、難儀をしておると言うてもです。大きな願いを持っておるならば、それこそ俺が股をくぐれといわれても、平気でくぐれれる寛大な心が生まれて来る。
 この位な事でこげなつまらん人と喧嘩どもしよって、自分が大事な身体それこそノミにも食わしちゃならないほどしの身体をです、そんな小さい争いごとや喧嘩で、傷どん受けたりしたんでは、愈々もって大きな願いが成就しない事になる。ここはいっちょ馬鹿になれる。いや馬鹿になる事が平気でなれるという、本当の助かりの道がその様にして助かって行くわけです。
 すでにその人は助かっとると言う事も言えるわけです。たったそん位な事で腹を立てる。馬鹿らしゅうなってくる。それはその人が助かっておると言う事になります。だから大きな願いを持たなければ、やっぱり修行が苦労になる。大きな願いを持っておると、苦労ではなくてそれが修行になる。それが有り難い。どうでも一つ迷い信心からです。今日は私はおかげ信心を迷い信心と。確かにおかげ信心は迷い信心ですよ。おかげだけ願っておって、おかげを受けられんと、信が薄くなる。
 そりゃ信心がおっくうになる。止めてしまおうごとなる。いや止めてしまう。迷い信心では。だから大きな信心には、行き詰まりがないと言われるように、行き詰まりのない、大きな願いを本当に立てられる。金光大神のご信心を頂いておるという者がです、久留米市内にどのくらいおるか。それこそ稀である。これだけ金光様のご信者がおるという、その中にです。又教えによって自分が助かっておるという人が、どの位あるか。ただ金光様ちゃ有り難いですよ。
 御利益が受けられますよという程度の人ばっかりであるとするなら、それは値打のない信者と言わなければならない。そりゃ本当に御神縁を頂いておるというだけでも、その縁が本当に有り難い縁に結ばれていく。その縁が、有り難いおかげの頂けれる信心になっていかなければ、本当に神様に対しても相済まん事です。夕べ壮年部会。初めて高橋さんが壮年部会に参加されて、皆が発表するけれども、高橋さんどうぞと言うても発表なさらない。それで私と一問一答と言う様な事になった。
 高橋さんあなた程しの信心をなさっておられる。それこそ福岡から毎日お参りをしてくるというだけでも大変。それだけではないそれこそ朝の三時半、四時の御祈念には、ちゃんとお広前に出ておられる。しかもそれが一年二年じゃない。この様に信心が続けられておる。御用というたら本当に、ゆっくりと御用が出来ておられる。どういう所からそういう事が出来るのか。やっぱ一つの根性でしょうか。
 現在のように沢山の支店が出来ましたらから、やっぱり従業員の方が百名からある。その百名の人達の、一人ひとりのことを思うたり、願うたりするだけでもじっとしちゃおられない。と言った様なものが、今の信心になっておるのだろうか。私自身の事でも夜も夜中もない。ふっと夜中に目が覚めて日々のうちに、是だけの沢山の信者がありますと、中にはそれこそ切羽詰まった願いをなさる方達がある。
 それをふっと夜中に目覚めに思うたら、やっぱり身づくろいをして、お広前にまた出てお願しなきゃおられないようなものを私自身感ずる。そのように沢山の従業員のおられる、沢山の支店がある。そういう一軒一軒の支店のことやら、従業員の方達の事を思うただけでも、とてもじっとだんしちゃおられんというのが、寝る時間も無いほどしにして、お参りが出来ておる、修行が出来ておる。どういう所からそういう信心が出来るのですかと、こういうわけなんです。
 ところが確かにそうですけれども、私はただ自分が願い人ではなくて、願い人は神様である。私はただ管理人だと。いうならば神様のお店を仮にさせて頂いておるのだ。だから有り難いとか、そういう実感が湧かない。私自身管理人の私であるけれども、管理人に対する、それ相当の給料も頂いていない神様から。場合には管理人をさせて頂いておるけれども、只働きのこともある。だから皆さんに聞いて頂くような、有り難い話がないのだとこういう訳です。
 私は大変そういう意味の話しを聞かせて頂いて、今日の皆さんの素晴らしい体験発表があったけれども。高橋さんのその事を私は一番、今日有り難いと思うたと言うて話したことでしたけれども。自分の仕事自分の御用と言う事ではなくて、ただ自分は管理人だと思うておられる時。そこで私は後から又考えだんですけども、商売が繁盛して行く事は、神様のおかげでもし今度は、それが不振であるとか繁盛しないと言う事になると、管理人私の不行届きとして、真剣なお詫びが出来るようになってくるだろう。
 管理人の私が皮肉を言うのですから、例えばこういう損になったとか、赤字になったと言う事になるわけです。そう言う事になって来た時に、もっとしみじみとしたお詫びの信心。又はそれが今度反対に、赤字が黒字になるという時にです。しみじみとした私位なものをお使い回しを頂いて、神様あなたの店が繁盛しておると言う事は、真にお目出度い事でございますと言うて、神様に喜びの言葉を申し上げれるようになっていかれる、今過程だなと言う様な感じがします。
 今日の管理人達の責任が、高橋さんをして他人の真似の出来んような修行を、今受けられておるという風な、まぁ私と高橋さんと色々一問一答しておるうちに、そう言う様な風に頂いたんです。だからこれが本当に黒字になれば、黒字になるほど本当に神様お目出度うございますという、お礼の心が強うなってくるだろう。いや是が反対に赤字になったら、神様済みませんと。と言う様な事になってくる時にです、信心は愈々大きくなって行くという風に思うです。
 昨夜の御祈念を、幹三郎が奉仕しておりましたが、その話しの中に、我情我欲があったら、とても金光様の先生ほど苦しいものはないと言うこと。自分があぁしたいこうしたいと言う様な願い。いうなら我情我欲があったら、金光様の先生ほど苦しい仕事はないとこう言う。そこで我情我欲が無くなったら、又こげな有り難い仕事というか、御用はなかろうと、こういう意味の事を話しております。私はそうだなぁと思いました。お互いの場合は、我情我欲があるから信心しておる。
 そういう信心を今日は迷い信心とこう、私は申しました。稀にしかない、金光様の信心者に、取り立てて頂いておるのですから、そういう迷い信心から一歩も出ない様な事では馬鹿らしい、相済まん事じゃないかと思う。稀の中にも稀、信者の中の本当の信者としてお取り立てを頂くと言う事はです。いうなら迷いのない大きな信心でなからなければならん。大きな信心とは大きな願い大きな愛。
 愛の心それには自分自身が助からなければならん。自分自身が助かると言う事は、我情我欲のない、自分というものを目指さなければならない。神様にゆだねきった任せきる。それこそ楽はせんぞ、という気にならせてもらうと言う事。楽がしたい楽がしたいだけの信心を迷い信心。楽になりたい楽になりたいという信心は迷い信心。だから我情我欲を捨てて、楽はせんぞという気にならせてもろうてです。我情我欲があればこげな苦しい事はなかろう。ちょいと久留米に行きたい、あげな遊びに行きたい。
 そういうものがあるなら、とても金光様の先生位厳しい事はないです。それを感じんようになった金光様の先生てん、そりゃ本当のもうそりゃつまらん。苦しみから逃れておるわけです。金光様の先生と言や畳半畳の中に、縛られておると言う様な事ですけども。これを考えますと、それこそ監獄に入っとるごたる、苦しかとこういうのである。けれども我情我欲を外してここへ座ったらです。それこそ愛の心がいやが上にも高まる。人が助かると言う事に一生懸命になれれる。
 こんな有り難い事はない。その有り難い方を目指そうというのである。私は今日は特にこの「稀」という字を頂いてです。私共が只楽になりたい、楽になりたいという信心は迷い信心だと。そういう信心から入ってです、そういう心に禾偏にちょっと自分の心を、信心の焦点を変えさせて貰う事によってです。自分自身が本当に助かる事のための信心。いうならば大きな信心にならせて頂かなければ、信者の中の信者とは言えない。その信者ですらが稀であるのに、その中にまた。
 稀である信心を目指さなければならない。金光様の信者が、本当にどれだけ全世界に、どのくらいおるか。久留米市内にどれだけ金光様の信者がおるか。と言う位に希少価値のある私達。それがです金光様の信者である、稀である一人でありますけれども、それが迷い信心であるとするならば、こげな相済まん話はない。迷い信心ではない一心と定める、ここの条件がいうなら大きな信心。人が助かる事のための愛の心と。それにはまず自分自身が助からなければならぬ。
 自分自身が助かる所から、愛の心というものが大きく育って行く。そこから有り難いという信心が生まれてくる。我情我欲を本当、取らせて頂いて、本気で信心の稽古をさせてもらう。その信心の稽古の焦点が、迷い信心に一心に定めるのじゃなくて、大きな信心に一心と定める。それは何故かと。金光様のご信心者という者がです、それこそ麦畑の中に、ぽつんぽつんとある黒ん坊ぐらいしかない、希少価値のある私共であり、いうならば神様が、白羽の矢を立ててござる私達なんです。
 その白羽の矢を立てられておる私達がです。迷い信心で一生終わる様な事であっては、神様をがっかりさせるじゃないか。自分もそれではがっかりするよなおかげしか頂かれないじゃないか。神様が白羽の矢を立てて下さったんだから、本当に神様の願いに応えられる信心者にならせて頂くことを願いとしなければいけんじゃないか。自分が苦しい時には、我情我欲があるから苦しいんだと悟らせてもろうて、我情我欲を捨てればこんなに有り難い事はない、こんなに尊い事はないという信心になってくる。
 その時に初めて私は、大きな信心が身に付いて来るという事が言えると思う。本当に僅かしかおらん金光様のご信者が、その僅かしかおらん信者がです。あんまり役にも立たない、ただ縁を頂いておるというだけ、ただ迷い信心でうようよしておるというだけでは、愈々金光大神のお取次ぎの甲斐がない。天地の親神様もこれでは落胆なさる。そこで私共の信心の目が本当に開け、迷い信心から大きな信心に切り替えられるおかげを頂いた所から、自分の本当の助かりの、又周囲が助かって行く事の働きも出来てくる。
 私共は稀代の、希望の希が、禾偏がないのと同じような、それは稀と言う事にならない。あの人ばっかりは稀に見る素晴らしい信者じゃと言われる信者にお取りたてを頂かなければです。稀な中の私達一家。それを愈々稀に見る、真の信心者という風にならなければ、そういう願いを持たなければいけないと言う事です。私共はこうやって毎日皆が信心の稽古をして、お参りをさせて頂いておる皆さん。それこそ稀です。けどもその稀な人がです、一生迷い信心で終わったんでは、稀という値打がないでしょう。
 それこそ稀に見る信心が出来なさる。稀に見るお徳を受けなさる。稀に見る助かった人だと言われるようなおかげを頂かなければです。神様が白羽の矢を立てて下さった値打がないというわけです。まぁ繰り返し繰り返し申しましたが、その位に希少価値のある信心を、頂いてくれという神様の願いをです。愈々希少価値のある信心に、私共が心を切り替えなければいけない。迷い信心からいわゆる真の信心に、いわばその真の信心をそれは大きな信心という風に聞いて頂いたですね。
   どうぞ。